「一九九五年の初め、第二回となるバーリトゥードジャパン・オープンの準備をしていたとき、父から電話がかかってきた。私のUFC参戦を検討したいから、自分とホリオンに会いにきてほしいという」
「日本では私の評価がうなぎのぼりだったが、UFCではホイスの評価が落ちてきていた。第三回大会の途中棄権を経て、第四回大会では優勝して復活を果たしていたが、アメリカの選手たちは彼の戦い方にアジャストしはじめていた」
「とくにレスラーが。一年前は二分で勝てたのだが、厳しい戦いを十五分強いられるようになった。第一回のUFCでは、ホイスはトレーナーとコーチを引き受けてくれたら賞金の一部を提供すると約束した」
「しかし、彼が優勝したあと、その賞金はホリオンが懐に入れ、私には何ひとつよこさなかった。第二回大会の準備中もホイスは同じ約束をした。もういちど力になったが、ホリオンはやはり優勝賞金を握ったまま何も報いようとしなかった」
「私が尽力したのは柔術の名誉を守るためだったが、ホリオンは自分を支えることしか考えていない。だから、ホリオンと父、そしてUFCの共同創立者アート・デイビーからようやくUFCへの参戦を打診されたとき、私が彼らに向ける関心はビジネスだけのものだった」
byヒクソン・グレイシー