「二〇一二年にアメリカへ戻ったとき、兄のホリオンと和解した。いろいろあったが、それでも彼が恋しかった。さまざまなことを分かち合ってきたし、いまでもホリオンくらい私を笑わせてくれる人はいない」
「もう柔術の政治やビジネスの話はあまりせず、父エリオが猛犬を飼っていたことや赤ん坊を鞍に乗せて線路のそばまで馬を駆っていた話、テレゾポリスで大家族と過ごしたよき時代の話などをしている。兄を愛しているが、三つ子の魂百までというとおり、ホリオンは相変わらずホリオンだ」
「ときどき、私がいまもベルトのバックルや靴を磨かせてもかまわない五歳児であるかのようなあつかいをする。二〇一七年、ラスベガスでセミナーを開いたとき、パスガードの実演をしていると部屋の奥で騒がしい音がして、生徒たちがそっちへ注意を向けた。私は無視して続けようとしたが、『それは確かか、ヒクソン?』と聴き覚えのある声がした」
「顔を上げると兄のホリオンがいて、その後ろには弟のホイラー、ジャン・ジャック・とカーロスのマチャド兄弟、昔の生徒ペドロ・サワーとカルロス・バレンチ、父の教え子アルバロ・バヘットなど、たくさんの友人の顔が見えた。思わぬサプライズに仰天し、呆気にとらえられいるうちに、ホリオンがみんなに向かって語りはじめた」
「『柔術が爆発的に普及した現在、世界じゅうの人を指導してその人生を変えるためにはヒクソンのような人材が必要です』兄が何を企んでいるのか頭をめぐらせた。予想外の過剰な賛辞で、とても本心とは思えなかった。『彼がラスベガスへ来ると知った時点で』ホリオンは続けた」
「『赤帯の授与を先延ばしにしてはいけないと判断したのです』ホリオンは柔術の最高段位を示す赤帯を自分の道着から抜き取り、私を抱きしめて腰に巻きはじめた」
byヒクソン・グレイシー