トラスト柔術アカデミー鹿児島・出水鶴柔術♪
「一九八七年、私は友人で非公式アドバイザーでもあるセルジオ・ズヴェイテルをともない、プロレスラーのアントニオ猪木への紹介状を手に、初めて日本を訪れた。猪木は七六年にモハメド・アリとデモンストレーション・マッチを実現させて名を馳せたが、当時はなかば引退して日本有数の格闘プロモーターになっていた」
「ずっと前から日本は私の人生の一部だった。柔術は日本発祥の武術で、伯父が日本人格闘家から手ほどきを受けたことも知っていたし、父が日本人と戦った話も聞いていた。私は偶然を信じない。日本とは深いつながりを感じていた」
「なぜ父はブラジルでもっとも著名な柔術家(柔術指導者)だったのか?なぜ私の一族は何世代にもわたって柔術を学び、戦うことでその効率性と優位性を証明してきたのか?幼いころ、自分が流暢な日本語を話している夢を見た。自分が何を言っているか理解できたし、日本人と議論したことも覚えている。だが、リオの自宅ベッドで目を覚ましたときには、もう言葉はわからなくなっていた」
「猪木はなかなか会ってくれず、待たされているあいだに東京を探検した。まず、世界一有名な柔道学校に敬意を表わそうと講道館をたずねた。柔道の創始者・嘉納治五郎がここで前田栄世を指導し、前田がブラジルで伯父たちにその技を伝えたのだ。講道館の柔道マスターたちは快く迎えてくれたが、私がプロの試合をするために来たことを話すと、『ここでは練習できない』と丁重に言い渡された」
「講道館はプロの試合を認めていなかったからだ。さんざん待たされ、あれこれ手続きをさせられた挙げ句、猪木は会ってくれなかった。彼の団体は私を常時安定して使えるプロレスの選手にしたかったのだろう〔かつてカーウソンとも戦ったイワン・ゴメスを七六年、猪木率いる新日本プロレスには練習生として迎えている〕」
「猪木は私のことを、ブレイクするチャンスを求めている無名の格闘家としか見ていなかったわけだ。無駄足に思えた旅だったが、このとき日本の事情を学んだことは後年に活きた」
byヒクソン・グレイシー