トラスト柔術アカデミー鹿児島・出水鶴柔術♪
「グレイシー一族に初めて大きな亀裂が走ったのは、ホーウスの未亡人アンジェラが亡き夫の道場を誰に引き継がせるかを宣言したときのことだ。私の父エリオが引き継ぐ意向だったが、アンジェラはホーウスの実弟カーロス・グレイシー・ジュニアに託すことに決め、彼はやがて父の柔術界最大のライバルとなる」
「父は護身術としての柔術の指導に満足していたが、カーロス・ジュニアは柔術を競技スポーツに変えるという大きな構想を抱いていた。ルールを標準化し、スポンサーをつけ、審判がいて制限時間がある、正式認可を受けた競技にしたかったのだ」
「キング・ズール戦のあと柔術の試合への興味が薄れはじめた私の意識は、バーリトゥードへ傾倒していった。一九八三年、南米ボクシング選手権をプロモートする巨大メディアがリオでの興行を目論んでいた。彼らはそのビッグイベントにバーリトゥード・マッチを一試合組み入れ、『北からキング・ズールがやってきて、リオの格闘家たちに挑戦状を叩きつける』と発表した」
「リオでは何十年もバーリトゥードが禁止されていたので、このアナウンスは大きな注目を集めた。私は最初、このズール戦にあまり興味がなかった。彼はすでに勝っていたからだ。自分が戦うより、誰かこの挑戦を受けるかに興味があった。デニウソン・マイアらルタ・リーブリの強豪やフラビオ・モリーナのようなキックボクサーが挑戦に応じるのではないかと期待していた」
「誰かがズール戦に名乗りを上げるのは時間の問題だと思っていた。なのに三週間経っても何の音沙汰もない。誰も名乗りを上げないのだ。巨大なうねりが自分たちの海岸を襲おうというのに、沖へ漕ぎ出すのが怖くて高波などどこにも見えないふりをしている。ただ、ほとんどの格闘家が怖じ気づいたのも無理のないことだった」
「当時彼らにとってバーリトゥードは未知の領域だったからだ。ノールールの試合は競技大会やキックボクシングの試合とは別物だ。グローブもマウスピースもファウルカップもなしで十分刻みのラウンドを戦い、勝敗はともかく、戦い慣れた居心地のいい場所を離れなくはならない」
byヒクソン・グレイシー