「一族最高のファイターは私だったかもしれないが、グレイシー柔術を売り込む点ではホリオンが飛び抜けてうまかった。生まれながらのセールスマンで、そのうえすばらしい売り物があった」
「携帯用ビデオカメラくらい柔術の普及に貢献したものはない。ホリオンはアメリカに来てから、ほかの格闘技の選手たちに挑戦しては、試合内容をビデオに収めていった。それらの映像が、アメリカで都市伝説の域を出なかったものを揺るぎない事実に変えた」
「一九八八年、ホリオンは『グレイシー・イン・アクション』というビデオを制作して、格闘技雑誌の巻末に広告を打ち、通信販売で売った。格闘家たちはこれが聖なる遺物の実相とばかりにビデオテープを貸し合った。実際、『グレイシー・イン・アクション』はこれ以上ない貴重な映像記録集だった」
「ホリオンのビデオは画質や編集技術に欠ける部分もあったが、収められていた動画はそれを補って余りあった。そこにはビーチでのウゴ・デュアルチとの戦い、ズールと二度目の対戦、ルタ・リーブリ対柔術の数試合、アメリカのさまざまなジャンルの格闘家とのチャレンジマッチが収録されていた」
「兄のナレーションには意図的にほかの格闘技を挑発し、挑戦をあおるようなところもあった。八〇年代アメリカの格闘家は組み技系〔グラップラー〕ではなく打撃系〔ストライカー〕で、彼らの多くがこのテープを見て目をみはった。こうしてアメリカの地でグレイシーの挑戦ははじまったのだ」
byヒクソン・グレイシー